「現代世界における意思決定と合理性」読書会にて学んだ『我事において後悔せず』

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少し時間が経ってしまいましたが、現代世界における意思決定と合理性の読書会に参加しましたので、内容を自分なりに纏めてみたいと思います。

ちなみに、当然私の解釈が入っての纏めになりますので、正確には是非直接書籍を読んで頂きたいのですが、この書籍の特徴として、本文よりも脚注の方が長いんじゃないのか、と思うぐらい脚注に補足説明や誤解しないようにする注意書きがたくさん書いてありまして、訳者の丁寧さが伝わってきましたので、それを雑に纏めてすみません、という気持ちでいます(笑)。

2種類の合理性

認知科学では合理性には2種類あって、1つが「道具的合理性」もう1つが「認識的合理性」です。

道具的合理性というのは、何か目的とか欲しいものがあって、それを達成したり得たりする可能性が高いことする、ということで、例えば、瓶ビールが飲みたいときに栓を抜く必要があるので、豆腐の角を使うよりは、栓抜きを使った方が合理的ですね、ということです。このとき、目的とか欲求そのものの合理性については評価しません。

一方、認識的合理性は、道具的合理性では評価しなかった、目的とか欲求に対する合理性を考えます。例えば、これから車を運転するので、無事に家に帰るためには、瓶ビールが飲みたくてもウーロン茶を飲む方が合理的というようなことです。

道具的合理性は期待値が大きいものを選ぶこと

道具的合理性は、すごくざっくり言えば、期待値の高い方を選びましょう、ということなので、確率と期待結果の掛け算、というような理論になります。つまり数学の問題のようにはっきりと条件が決まっていたら、明確に優劣が決められます。そのような期待価値を最大にするような意思決定を規範モデルと言うそうです。一方で、人間の実際の反応パターンを説明するものを記述モデルと言うそうです。

このとき、記述モデルは規範モデルから外れたものになることが多くなるのがポイントで、これには行動経済学とか心理学に出てくるような、ヒューリスティックやバイアスが関連してきます。

例えば、50%の確率で100万円手に入れられて、50%の確率で90万円損をするという話があったときに、単純な期待値としては、得をする方が大きいですが、プロスペクト理論 - Wikipediaにあるように、損失を回避したい気持ちが強くなるので、この話を受けない、という意思決定が存在しうる、というわけです。

認識的合理性とは確率や期待結果の大きさを見積もること

道具的合理性の規範モデルは、「確率と期待結果の掛け算」による判断になるわけですが、生きていて、明確に確率と期待結果が数値化されていることはほとんどないと思います。それどころか、何が期待結果なのかすら曖昧なことが多い気がします。

認識的合理性とは、そういう確率や期待結果の値をどう見積もるか、という話で、具体的にはベイズの定理が紹介されています。これもすごく雑に言ってしまえば、何かしらのエビデンス資料(情報)から正しく確率を見積もれるか、という話になります。

例えば、ギャンブラーの誤謬という話があって、公平なコインで、5回連続で表が出た後、6回目は表よりも裏の方が出そうと思ってしまうことがありますが、実際には、50%50%というのは変わらないわけです。

このように、認識的合理性も道具的合理性と同じく、人の判断は合理的なものから外れたことをすることがあります。

本当に合理的な判断を出来ていないのか

これまで、道具的合理性、認識的合理性それぞれに、記述モデルは規範モデルを外れてしまうことが多いということになっているわけですが、人間の認知には不合理な部分があるということを前提にしている改善主義者に対して、人間の判断は得られている情報の中で最善のものを選んでいる(規範モデルが適切ではない)というパングロス主義者という意見があるそうです。

例えば、三段論法推理、という話があって

  • すべての生物の生物は水を必要とする
  • バラは水を必要とする
  • ゆえに、バラは生物である

という話があったら、水が必要なものがすべて生物だとは言っていないので、規範モデル的には「ゆえに、バラは生物である」は誤りになるわけですが、

パングロス主義的には、バラは生き物だということを事前に知っている世界において、バイアスが働いて、バラが生物を判断しても合理的ではないと言えない、なぜなら、そのバイアスを抑制して判断することは日常生活において負荷が高く、負の結果を招くものだから、というような理屈になると思っています。

個人的には、ちょっと強引だなとは思ってしまいますが、実際、ありとあらゆる意思決定において、確率と期待効果の大きさを見積もって、期待値の大きいものを選ぶ、ということをやっていたら大変というのには一理あるな、と思います。

改善主義とパングロス主義の両立

そうした中で、改善主義的な合理性とパングロス主義的な合理性を両立するために、二重過程理論を考えます。

これは、脳内には、<タイプ1>と<タイプ2>という2つの処理があるということにして、

  • タイプ1はヒューリスティックな処理。速くて自動的
  • タイプ2は規範モデルを目指すような処理。分析的で高い演算能力が要求される。

という役割分担を考えるというものです。

これについては、読書会で色々と盛り上がりまして、だいぶ勝手な解釈が含まれますが、最初はタイプ2で考えていたものが、自分の中でタイプ1になっていくものとかがあるんじゃないか、とか、ヒューリスティックとかバイアスの存在を認めた上で、自分の認知をどのように捉えて、またタイプ2のときだけ判断できるのではなくて、タイプ1のときも出来るだけヒューリスティックとかバイアスの影響を受けずに判断できるようになる、もしくは、本当にヒューリスティックとかバイアスを受けないで判断する方が良いのか?みたいな話をしていました。

優れた意思決定戦略は自己修正的である

前段まででだいぶ哲学っぽい感じになってきた気がしますが、本書としては最後に、優れた意思決定の方略は自己修正的なものだ、という話になっていきます。

結局のところ、規範モデルはあっても、人間の認知には何かしらのバイアスがあることや、世の中の変化による確率や期待結果の変化を考えれば、合理的思考とは不変なものではなくて、状況に応じて変化することが必要、という話です。そのためには、メタ合理性が重要になります。

メタ合理性とは、合理性をメタで捉えるということですが、例えば、

  • お腹が空いたので唐揚げ200個食べたい

という欲求があったとして、(これを一階の欲求として)それに対して

  • ダイエットしなくてはいけないから揚げ物は食べてはいけない

という二階の欲求が発生することを考えます。

この時、二階の欲求よりも一階の欲求を選好することになれば、唐揚げを200個食べることになりますが、一階の欲求よりも二階の欲求を選好することになれば、豆腐を200個食べることになるわけです。

それで、一階の欲求が勝っちゃったな、みたいに考えることはよくあると思いますし、唐揚げと豆腐以外にも食べるものはないかとか、ダイエットするのに豆腐200個は食べ過ぎなんじゃないかとか、そもそもダイエットする必要があるのか自分の人生としては唐揚げを食べて太った方が幸せじゃないか、とか色々考えられて、とりあえず豆腐100個食べてみよう、みたいに方略を選ぶことが出来るわけです。

このようにして、自分の合理性をメタで捉えることによって、自己修正できるようになっていく(かもしれない)という話です。

また、人間は規範的モデルで常に行動できるわけではないという現実を受け止めて、自己修正的になれるように、今考えている認識や合理的判断を常に疑っていく、ということが大事になってきます。

我事において後悔せず

ここで、タイトルに話が戻るんですが、読書会の参加者の方から、宮本武蔵の『我事において後悔せず』という言葉を紹介してもらいました。

この本を読むまでは、「前向きに生きよう」「くよくよしてもしようがない」みたいなニュアンスで捉えていたのですが(そういう意味もあるんだろうとは思いますが)、ここまでの話を受けて考えると違った見方になるのが、個人的に大変感動的でした。

つまり、後悔をしている時点で、暗に今の自分が正しいと思っているということになってしまう、(自己修正的であるために、)常に自分の考えを疑っていたら後悔は出来ない、という捉え方になるのです。

最後に

本書の最後の文が格好良かったので、引用して終わりにします。

合理性の進化とは<文化進化(cultural evolution)>という未完結の過程として継続中だということである