いまさらながら心理的安全性について考えてみました

心理的安全性とは?

ここ数年よく使われる印象の心理的安全性という言葉ですが、使われどころによっては「それ心理的安全性の話なの?」「そこで心理的安全性という言葉使っちゃうの?」と思うことがしばしばあり、一方で自分もちゃんと理解できているかと言われれば当然自信はありませんので、改めて調べてみようかという内容になります。

手元にチームが機能するとはどういうことか――「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチがあったので、その第4章「心理的に安全な場をつくる」に書かれている内容を中心にしています。が、ある程度自分の解釈も入ってきますので、「これが正解」というものではないと思います。

心理的安全性は何が良いのか

誤解を恐れず一言で言ってしまえば、「問題vsわたしたち」という構図になれる、ということかなと思っています。

基本的に社会を生きていると、ある程度「対人不安」が存在している人が多いと思います。例えば、

  • テックリードが発言した内容が間違っている気がするけど、誰も指摘しないし、自分が間違っているかも
  • 上司のやり方に問題を見つけているけど、口を出すと、評価が下がるんじゃないか
  • チーム10人中9人が賛成したことに、自分だけ反対すると空気を乱すんじゃないか

みたいな類のやつです。

こういう不安があると、自分が損をするリスクを感じて、ついつい自分が指摘しなくても他の人が指摘してくれるのでは、というような、回避的な行動を取りがちになってしまいます。

心理的安全があれば、こういうものに対して、リスクや不安を感じずに指摘できるので、それによって、わたしたちの知見を集めた状態で問題と向き合うことができますよ(それは強い状態ですよね)。という話だと思っています。

心理的安全性のつらいところ

一方で、問題・失敗を明らかにするというのは、心地よくない人が多いのではないかと思います。なので、それが大丈夫、となっていくことが心理的安全性のキーであり、つらい(難しい)部分なのかなと思っています。本からの引用ですが、

心理的安全は、メンバーがおのずと仲良くなるような居心地のよい状態を意味するものではない。プレッシャーや問題がないことを示唆するものでもない。


心理的安全は対立のないチーミングを約束するものではない。いや実際、心理的安全は、あまり安全でない場合に起きるだろう対立や意見の相違を、いっそうたくさん生むかもしれないのである。


自己表現や生産的な討論が歓迎される組織は、人々が率直に発言するという意味でかなり手厳しい場所だ。人々は思っていることを口にし、間違っていることを証明されるのを進んで受け容れるのである。

念のため、言い方とか、個人攻撃はしないとか、信頼や尊敬があるとか、諸々前提も必要な話だと思っていて、喧嘩をしましょう、ということではないです。

結局、心理的安全とはどういうものなのか

これは完全に個人的な認識ですが、Agileとかもそうですが、どういうものが心理的安全というかは、その場その場で違うものだと思っています。

問題に対して立ち向かっていたら、みんながフラットに発言できたのが良いやり方だったよ、多分それは心理的安全って言われているものだね、みたいなことだと思っていて、「どうなったら心理的安全なのか」みたいなことを考えるのは、目的と手段を逆にしてはいけない、的なことで、多くの場合、変な話なのかなと思います。

もちろん、パターンとして真似するとか取り入れるとか、参考にするべき考えであるとは思いますが。

その他

本にもちょっと書かれていましたが、基本的に人間の脳は恐怖などによって回避的な行動をするときより、楽しいことなどで前向きな行動をするときの方がパフォーマンスが高いみたいです。詳しくはまた別の機会に纏めてみたいですが、以前、「接近的動機づけ・回避的動機づけ」という内容を学んだときに知りました。(そもそも脳の中の使う部分が違うので、パフォーマンスが違う、ということのようです)

個人的にはこれはとてもおもしろいなと思っていて、恐怖を無くすとか、楽しいことをやるというのが、(単に集中するから、とかではなく)脳のレベルで違うというのは、それをやる理由や勇気になるなと思っています。